『この世界は学びの教室だった』神新二 メッセージ (3)
『この世界は学びの教室だった』というタイトルで、神新二プロフィールの詳細シリーズの最終回をお届けいたします。私は20代で本当に様々な体験をさせて頂き、ある意味「人生の目標を達成」することが出来ました。しかしその一方で成功したからこその苦しい体験も味わっていて、人生の深いところまでいろいろな事を考えるようになっていました。良い事だけではない、それらの苦難とも言うべき経験があったからこそ初めて気づくことが出来たことがありました。それは、ある「宝物」が心の奥底からしっかりと浮かび上がって来たことです。今回は、その浮かび上がって来た宝物について書かせて頂きたいと思います。
そして同時に血を吐くようなUWFの苦々しい経験と葛藤から学ばせていただきました。それは、私たち人間は「争う為に生まれて来た訳はない」「自己主張だけでは何も生まれない」ということです。つまり、自我(エゴ)を越えたところにある、真の私たちの生きる目的があるはずだ!その為には「すべてを赦すことが不可欠なのだ」という事を体験し学ばせていただきました。しかし実際に起きた事を赦すことなんて並大抵な事ではありません。しかし、相手を赦すことでしか私たちの心の安らぎは得られないと、体験を持って確信をいたしました。人生とは「学びの為の教室」の様なものだったのです。
それらを伝え得る真の学校をつくることが目標となりました。年齢も国籍も関係のない、人間にとって本当に大事な事を身に付ける事ができる様な学びの場をつくることが新しい夢となったのです。
悲しいかな人間はお金が絡むと、本当に人が変わったようになるものです。他人の成功を妬み、様々な妨害をしてくる人も現れてきます。そして最後にはお金を狙って、奪い取り乗っ取ってやろう等という人まで現れるものです。人間の欲望とは本当に恐ろしいものです。私はその人間の恐ろしい一面を真っ向から受け、20代のときに直に体験しました。何よりももめ事が大嫌いな私は、そっとその場から離れることを選択したのでした・・・。
その体験から学ばせて頂いたことは数多くありました。人は自分だけが正しいと自己中心的な生き方をした時には、そこには悲しみや恨みしか残らないということ。私が正しい!いや、俺が正しい!と言い合えば、必ず喧嘩になり泥沼に入り込むだけだということ。よってエゴは最終的にはすべてを破壊してしまうという事を体験し実感しました。つまり、同じようにエゴだらけで憎しみ合う人類の行きつく先は、必ず滅びの道を真っすぐに進む事となってしまうだろうと実感しました。
そこで、自分はどう生きたら良いのだろうか?また、私たち人間の生きる意味とは一体何なのだろうか?という事を真剣に自分に問うようになりました。私たちは悪口を言うために生まれて来た訳でも、喧嘩をするために生まれて来たではない筈だ。もめ事を起こすためにも、ののりし合う為にも生まれて来たのではない筈だ。そして他人を悪く言う為に生まれて来たのではない筈ですから。誰しも幸せに笑顔で生きたいと願っているはずなのに、私たちはどうしてこうなってしまうのだろうか?と・・・。
エゴが中心で回っているこの世界の現状は、本当に酷い状態です。でも私たちはこの世界自体を直接変えることは出来ないかもしれませんが、この世界をどの様に感じるか、どう受け止めるかといった事は自分で選択することが出来るのです。同じように自分の人生に今起きている事、そして今まで人生に起きたこと含め自分自身がどう解釈して、そしてどう前に進んでいくのか?という事が大事だという事に気が付かせて頂いたのです。他人の事や、周りのことに文句ばっかり言っていても何も始まらないばかりか、自分が腐っていくだけだからです。
つまり『この世界は、学びの教室だった』という事を実感したのです。何の学びかと言いますと、それは「ゆるし」の学びでした。私たちの人生とは「ゆるすことを学ぶための教室」だったのです。でも自己主張ばかりしていては、人をゆるす事など絶対にできません。エゴばかりで「私は正しい!あいつが悪い!」では、他人をゆるす事なんて到底できる筈もありません。自分というエゴから飛び出し相手の立場になって考えることが出来なければ、人をゆるす事は絶対に出来ないからです。そして自分自身をも「ゆるす」ことが大事だという事も学ばせていただきました。
なぜ赦す事の大切さに気付いたのか?と言いますと、自分の人生にとって起きている出来事や自分の人生に関わる人や環境とは、自分自身の「心の投影」なのではないだろうか?そして自分の嫌いな人や嫌な事とは、「自分の心の嫌な暗い部分の映し」なのではないのだろうか?と気づいたからでした。それはまるで鏡の世界の様でした。
心の映しとは言うものの、私たちは実際に起きた事をゆるす事はなかなか出来るものではありません。そこで視点を変えて客観視できるようになってくると、この世界で起きている事も自分の人生に起きていることも、すべて学びの為のものだったという事が分かってきます。これにはトレーニングが必要なのですが、誰も教えてはくれませんでした。だったら学べる場をつくりたい!という思いが、当法人を立ち上げるキッカケとなったのでした。
私たちの自分の人生で起きていることはすべて「自分の心が投影したもの」であり、投影した世界が自分の体験する世界となっているという事にも気が付かせて頂いたのです。まるで映画館での映画の上映の様に、私たちの心が映画のフィルムとなり、世の中で自分が体験する出来事がスクリーンとなっている!という事が観えて来たのです。
まさに「この世は舞台、人はみな役者だ」と言ったシェイクスピアの世界観そのものが、この世界で起きていることでした。よって他人のせいにしては、私たちに学びはありませんでした。私たち人間は、自分の心が映したスクリーンに文句を言っているような状態です。現在人類は、人生という大学で卒業できなくて留年確定者が続出!という状態となってしまっています。人生という教室での一番の学びは、『愛を学ぶために、今を生きている』と言ってもよいのかもしれません。私はあなたであり、あなたは私であるという愛に溢れた世界をつくるということを学んでいる最中だったのです。これが宝物の正体だったのです。
これを実際の生活の中で「愛という生き方」「愛に溢れた生き方」を表現して生きて行けるのか?が、私たちのミッションなのです。その為には自分の心の中にエゴがあっては叶わぬことです。SNSなどの匿名では特に、文句しか言わないような現代人・・・悲しすぎます。心の中はどうなっているでしょうか?言わなくても心の中で思っていたら同じことです。よって見るべきは外ではなく、内側です。自分の心を見ることでしか本当の事は見えては来ませんし、真理に出会うことも出来ないのです。他人の心ばかり覗くことをしていては、貧しく悲しい人生になるだけですから。
私たちは「学びの為」に、ここという「教室」に来ているのですから、今一人一人が抱えているであろう困難こそが「あなたが受けている授業の課題」だったのです。一人一人のカリキュラムは当然違うのです。受けている授業が違うのですから、他人の事をかまっているヒマはないのですよ。他人もあなたの心の投影だったのですから。つまりは、他人も自分自身だっという訳なのです。つながっていたのです。その為にも真実を学ばなければなりません。つまりスポーツ選手が体を鍛えるのと同じように、「心も鍛えなければいけません」。学びの場としての「心のトレーニングセンター」が必要だと思うのです。
一人一人の授業の内容に偶然はありません。必然ですべてが起きている事に感謝できるようになれれば喜びが増してきます。私たちは喜ぶために生まれて来たのですから。困難を乗り越えられる事は、ある意味もう決まっているのです。あなたが学びを諦めない限り、絶対に乗り越えて課題をクリアーする事ができるのです。
ヴィジョン / Vision
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