「夢や感動を与えたい!」という言葉への違和感・・・。

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アスリートの方々等が、よくこんな事を言うのを耳にします。「夢や感動を与えたい!」「希望を与えられるように頑張る!」と・・・。この言葉にとっても違和感を感じてしまうのは、ヴィジョンだけでしょうか?というのも、夢は与えようと狙って与えるものだろうか?感動は、感動させようと狙って感動させるものだろうか?希望とは、狙って与えるものなのだろうか?と直感的に思ってしまうからなのです。

夢も、希望も、感動も、宣言したり狙ったりして他人に与えるものではないのだと思うのです。例えばアスリート達が、必死に努力し活躍する姿を観て、受け手側が「夢をもらったり、希望をもらったり、感動したりする」ものだと思うのです。ですから「感動を与えたい」等は、発信する側が我々に対して上から押し付けるように感じられて、とても違和感を感じてしまうのです。悪気なく言っているのだと言う事は重々承知しています。しかし、そんな発言をしてしまう方々の心の根っ子が透けて観えてしまう気がするからなのです。

注目を浴びるアスリートだけの話しではなく私達全員、「謙虚さ」というものがとっても大事だからなのです。よって自分自身に「自問自答する事」がとても大事なのです。例えば周りにチヤホヤされて、有頂天になってはいないか?謙虚さを持ち続けているか?好きな事をさせて頂いている事への感謝を忘れてはいないか?初心を忘れてはいないか?等と、常に自分に問い続ける事が大事なのです。なぜならば傲慢な人は後に結局、大変でそして恥ずかしい人生を送っている人が多いからです。

ですから、夢も希望も感動も他人に与えるものではないのです。それは「余計なお世話」です(笑) それは勝手に受け手側が感じさせてもらうものなのです。発信側がそれを口にした瞬間、上から目線で心が間違った方向へと行ってしまうのです。心が間違えば、必ず結果は間違ったものしか生まれて来ないのです。私たちは、アスリートや有名人だけでなく全員、いつでも謙虚であるべきなのです。謙虚な心にしか観えない、素晴らしいものがあるからです。謙虚な心にしか感じられない、素敵な世界があるからなのです。傲慢な人には感じられないものがあるのです。

ヴィジョン / Vision
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  1. キイチ

    私は以前「夢や希望を与えたい!」と言われるアスリートや芸能人に憧れていました。

    自分も夢や希望、感動を与える人に成りたいなどと思っていました。

    今回の記事を読ませて頂いて良く考えてみると私は、
    アスリートさんや芸能人のカッコ良いところだけに憧れを持ち、
    自分も称賛を受けたいとか、
    特別な存在でありたいなどと言う、
    思いが心の奥に潜んでいたことに気が付きました。

    今も人の為にとか誰かの役に立てる様になどと、
    言いつつも本当は誰かに認めてもらい、
    称賛を受けたいなどと言う下心があるかも知れません!

    何時も初心を忘れない謙虚さが必要だと改めて教えて頂きました。

    ありがとうございます。

  2. カルテット

    アスリートの方などが、「夢や感動を与えたい!」などと言っている事に、
    何ら違和感を感じていませんでしたが、
    記事を読ませて頂いて、本当にその通りだと思いました。
    「余計なお世話」という所に、大笑いしたと同時に、
    自分も同じように傲慢な所だらけだなと感じました。

    謙虚さとはかけ離れて、好きな事をさせて頂いている感謝なども、
    ついつい忘れています。
    傲慢さが身についてしまっている自分に、
    常に問い続けていく事を意識して過ごします。