放蕩息子のたとえ話

あなたは「放蕩息子(ほうとうむすこ)の例え話」を知っているだろうか?もしご存じない方は、まずは下記の動画を見て欲しいのです。(5分41秒) 私たちの出生の秘密と、私たち人間の姿が客観的に描かれているからです。尚ヴィジョンはキリスト教信者ではありませんし、また他の宗教団体にも一切入っておりませんので、安心してご覧くださいませ。

放蕩息子のたとえ話

放蕩息子のたとえ話(ほうとうむすこのたとえばなし、Parable of the Prodigal Son)とは、新約聖書ルカの福音書(15:11 – 32)に登場するイエス・キリストが語った神のあわれみ深さに関するたとえ話のこと。このたとえ話は、福音書に登場するたとえ話のうちで最もよく知られているもののひとつです。

内容

ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた。そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。

父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。

父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(口語訳新約聖書 ルカ 15:11-32

この放蕩息子とは一体誰のことを言っているのだと思いますか?

父の元を離れた放蕩息子とは、誰だと思いますか?

この放蕩息子とは私達のことだったのです。

そしてこの素晴らしい父とはいったい誰のことだと思いますか?

その父とは神様のことだったのです。

つまり私達人類は放蕩息子であり、偉大なる父である神の元から離れたという訳なのです。

それでも神は怒ってもいないし、今でも愛のみで抱きしめてくれるのです。

というか私たちは一度も実は神の元を離れてはいなかったのです。

しかし私たちは神の元を離れてしまったという罪悪感が、実はこの宇宙を創り上げていたのです。

だからこの宇宙に神はいないし、エゴの宇宙だと伝え続けている訳なのです。

映画に例えると、エゴというフィルムが映し出すスクリーンがこの世界だったのです。

しかも、この世は実は夢の中だったのです。

私たち人類は、今も悪夢を見ているのです。

その悪夢から目を覚ます時が、今というこの時なのです。

私たち一人一人が夢から醒めるときを迎えているのです。

この事をスピリチュアル系の方々は、アセンションとか覚醒する時と呼んでいるのです。

放蕩息子のことを、神は責めてはいなかったのです。

ですから私たちは神の元に還る時!なのです。

エゴからの脱出です。

それが今という時代に生きている私たちの使命なのです。

内なる神と共に・・・。

(※トップの絵は、レンブラント・ファン・レイン『放蕩息子の帰還』 エルミタージュ美術館)

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